2008-05

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シャピロ 私の中国、
一生をかけて本を記す

文/段崴

新婚ほやほやの鳳子とシャピロ氏

   初春の北京。木の枝にはまだ緑の若葉は顔をのぞかせておらず、週末でもないため、前海の胡同散策の三輪車もひまそうで、まれに観光客を乗せた三輪車が何台か、ギシギシと音をたてて通りすぎるくらいである。93歳の中国籍アメリカ人のシャピロ氏は、この前海ちかくの胡同のなかに住んでいる。門の右側にある呼び鈴の横には中国語と英語でシャピロ氏の名前が書かれており、呼び鈴を鳴らすとまもなく、白髪のシャピロ氏が門をあけに出てきてくれた。

   シャピロ氏の書斎はこじんまりとしていて、南向きの窓からはたっぷりと日の光が注いでいる。屋外はまだ肌寒いけれども、室内はほんわりと温かい。窓のそばには簡単な木の机と椅子がおかれており、ここがシャピロ氏の毎日の読書と執筆の場所である。窓の脇には江南製の竹の安楽椅子があり、読書に疲れたらここでちょっと一休みして、日向ぼっこをする。私は取材前にシャピロ氏についていろいろ調べてきたのだが、シャピロ氏本人を目の前にすると、彼の見事な中国語と、中国の文人然としたその様子に驚かされた。茶色の錦織りのチョッキを羽織り、青い布靴を履いたその姿は、深く窪んだ眼窩と白い皮膚に気づかなければ、まさに中国で生まれ育った中国人である。

私の中国

   ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれ育ったシャピロ氏は、1947年に上海にやってきた。もともと法律関係の仕事に就こうと思っていた彼は、新中国建国の目撃者となり、半世紀もの長きにわたって、中国と深い縁を結ぶことになった。

   シャピロ氏の中国との縁は、彼の従軍時代に始まる。40年代、シャピロはアメリカの高射砲兵であり、アメリカは国際戦略という観点から、兵士にいろいろな言語を学ばせており、シャピロ氏は中国語を勉強するようにと命令された。思いもよらなかったことに、一度勉強を始めると、忽然と中国語に対する興味がわいてきて、中国語の背後にあるこの古い文明に対しても憧憬を抱くようになった。このような気持ちを抱いて東方に来た彼にとって、この国はまさに神秘的な国であった。

   中国に着いたばかりのころの面白いエピソードを、シャピロ氏は披露してくれた。上海に着いたばかりのころ、冬の寒さに慣れず、四六時中風邪をひいていて、体の調子がずっと思わしくなかった。のちに彼は、それは着ている服のせいではなかろうかと気づいた。そのとき彼は西洋服を着ており、それは風を通すだけでなく保温もよくなかった。上海の人はみな長い綿入れを着ていたので、それを真似て綿入れを着てみたら、まさしく効果があり、とても温かく、それ以降風邪をひくことはなくなったという。

   そしてその上海で、シャピロ氏は、中国の女優鳳子との愛を得た。鳳子はイェール大学の中国人の同級生が、彼に中国語の先生として紹介してくれた女性で、上海にきて最初にできた友人でもあった。彼女は中国共産党の地下組織で危険な革命的活動をしており、シャピロ氏もその手助けをするようになり、彼女を助けて革命的な出版物を編集したり、国民党のブラックリストにのっている人物をかくまったりした。

   1948年、5月16日、シャピロと鳳子は夫婦となり、ふたりは一生助け合い、いかなる困難をも共にすることになった。シャピロ氏は『私の妻鳳子』のなかで、このように記している。「鳳子は私の妻であるだけでなく、中国との分かちえない一部分である。中国と私の間に絶え間なく流れている渓流であり、そこに流れる一つの民族、一つの文化、一つの社会的精髄なのである。」

シャピロと孫娘ステラが、北京の四合院のなかでともに過ごす時間を愉しんでいる

   カメラを前にしたシャピロ老人は、とても落ち着き払っていた。彼は自分もすでに「年おいた役者」になったという。今、絶え間なく筆を走らせているこの老人は、かつて重大な歴史的事件を題材にとった映画で、外国人の役を演じたことがある。たとえば、『停戦以後』、『長空雄鷹』、『西安事件』などである。アメリカの空軍将校や、交渉の調整役などの役柄に扮した彼は、いまだ多くの人の記憶に新しい。

   映画での演技に関する自らの評価について語るとき、彼は夫人鳳子のことを思い出す。「鳳子はいつも私を『生きた道具』だといって笑っていました。私はその評価に納得がいかず、彼女が私を嫉妬しているものと思っていました」と言いながら、彼は静かに笑って、後ろの壁にかかっている鳳子の遺影を眺めた。何十年も共に暮らした彼らにしかわからない多くのことが、たくさんあるのだろう。

遠心分離機のなかの粒子

   シャピロ氏の書斎の壁際の本棚には、彼の著作と翻訳した本がずらりと並んでいる。何十年もの間、シャピロ氏はこつこつと勤勉に仕事をしてきた。1952年から、彼は英語版『中国文学』と『人民画報』英語版の翻訳作業に携わってきた。中国人民抗日戦争に関する小説『新児女英雄伝』や巴金の『春』、茅盾の『春蚕』などの作品は、みな外国の読者が中国を理解するための窓を開くものとなった。彼はさらに中国の古典的文学名著『水滸伝』の翻訳も完成させた。

   「中国文学の翻訳は、私の職業であり、趣味でもあります。さらに多くの中国人と『知り合う』機会がもて、さらに多くの場所へ『旅行』にいくことができ、私が一生でなしえるよりも多くのことを、翻訳によって成し遂げることができるのです。」

   シャピロはいま、北京で西や東から来る多くの来訪者と会うのに忙しい生活を送っている。「中国に関するありとあらゆるテーマ、中国国内や国際政治に関することから日常生活まで、いろいろな質問をしに、世界じゅうのありとあらゆるところから私に会いに来る人がいます」と、彼はいう。「中国歴史におけるもっとも重要な変化という遠心分離機のなかの粒子のように、私のわずかな存在意義を持ち続けられたらと思っています。だから、こういう中国を紹介する機会があるのをとても幸運に思います。」

政治協商会議におけるシャピロ氏。 今年彼が出した提案は「タバコ貿易の禁止について」

   1963年に中国国民となったこの93歳の老人は、時間があれば、野良猫にえさをやり、家の庭に植えられた花や植木の手入れをしている。「私はたばこもやらないし、酒も飲まない。なにか贈り物をくれるなら花にしてくれ、とよく友達にいっています。」彼の書斎の窓辺には、さまざまな植物が並べられていて、まだ春になったばかりだというのに、シャピロ氏が丹精こめてそだてた植物は、美しい花をつけていた。

   シャピロ氏は娘とともに生活している。アメリカで10年の教育をうけた孫娘のステラからみると、シャピロ氏は「ふつうのおじいちゃん」である。「私はおじいちゃんが外国人だなんて考えたことはありません。ただのやさしいおじいちゃんです」と、彼女は言う。

     「中国人であろうとアメリカ人であろうと、ユダヤ人であろうと漢族であろうと、共産党員であろうとなかろうと、私たちが楽しく一緒に生きていければ、それでいいのです」と、シャピロ氏はいう。「国際人として生き、社会に貢献すれば、どんな国の人であろうと、問題にはならないのです。」