2003-01

本誌特別記事



三峡よ 永遠に─

水没地区最後の記録


文/ 阿磊
    

 三峡プロジェクトは、アメリカのフーバーダムやエジプトのアスワンハイダムの規模をはるかに上回る世界最大の水利プロジェクトであり、人類の歴史における最大の自然改造工事でもある。人であれ、町そのものであれ、この工事の実施により、その運命を大きく変えざるを得なかったものは数知れない。今回は、この世紀のプロジェクトによってその姿を変える現地の様子を伝えよう。

    
水期の水位の変化を記録している。現代の水位観測の原理と非常に近いものである。 (写真/鄭雲峰)
曲りくねった川岸の山の小道を行く嫁入りの行列(写真/解特利)
三峡の姉帰区間には波しぶきを上げる9ヶ所の暗礁があり、「九龍奔騰」と呼ばれている。ダムができて三峡が大きな湖になると、この景観も消える。(写真/鄭雲峰)

    長6300キロ。中国最大にして、世界で3番目に長い河川・長江は、青海・チベット高原に源を発し、上海市付近を経て東中国海に流れこむ。長江は中流で巫山を抜け、重慶の奉節から湖北省の宜昌までの区間に三つの峡谷を形成する。それぞれ西から東へ衢塘峡、巫峡、西陵峡といい、この約193kmの区間は「三峡」と呼ばれている。
 歴史上、長江は度々氾濫し、この流域の住民に巨大な災難をもたらした。この問題を根本的に解決するため、中国政府は三峡の東部に巨大なダムを建設し、巨大な貯水池を建設する「三峡プロジェクト」の実施を決定した。2003年6月、人類史上最大の水利施設工事――三峡水利工事は、その第1次貯水を完成する。その時、三峡ダム以西の400kmの範囲に含まれる海抜135m以下陸地は、すべて水面の下に消えることになる。
 以下の写真は三峡最後の姿を記録したものである。

長江文明の証人――三峡ダム区域の文化財保護 燦然たる古代文明 
 長江は三峡地区に美しい自然景観をもたらすと同時に、燦然たる古代文明を育んできた。三峡には今も数多くの歴史文化遺跡が残されている。
 三峡ダム区域には、旧石器時代の遺跡が60数ヶ所あるが、その内の14ヶ所は全く無傷の状態で残っている。これらの文化遺跡は、黄河と同じく長江も華夏民族を育んだ母親であったことを証明するものである。
 古代の巴(四川省重慶地方を指す)人の住居遺跡に対する発掘調査によって、歴史の轍に埋もれた古代人の存在も明らかにされた。絶えず発掘が続けられている秦・漢時代の遺跡も黄河文化と長江文明とが次第に融合し統一されていったことを物語っている。
 「世界最古の水位観測所」と言われる白鶴梁を代表とする中国の古代石刻遺跡は、世界でも稀に見る古代からの水位記録の展示回廊である。
 緑に覆われた長江三峡両岸の山々には、この他にも張飛廟、石宝寨、大昌古鎮を始め、300数ヶ所の古代建築群が点在しており、『三峡プロジェクト水没区および移転区の文物保護に関する計画』に組入れた文物、遺跡、古代建築だけでも1087件に上る。その中で地上文物は364ヶ所、地下の文物は723ヶ所であるが、この数字は燦然たる三峡歴史遺産の一部分に過ぎない。
時間との戦い
三峡プロジェクトの実施が決まると同時に、三峡地区の文物の発掘調査、保護対策も急ピッチで始められた。2003年に水位は135mに、2009年には175mにまで上昇することになる。この限られた時間に、調査を行い、保護対策を講じなければならないのだ。関係者たちは、時限爆弾を背負ったような思いでそれぞれの任務に取り組んだ。
1997年、重慶市は中国の直轄市に昇格する。直轄市になった重慶市は、直ちに「三峡地区の文物を如何に保護するか」をテーマに全国的規模の会議を開き、重慶の文物保護対策の一環として、最近、予算5億元の「重慶中国三峡博物館」の工事が開始された。この「重慶中国三峡博物館」には30数万点にのぼる三峡地区の文物が収められる予定である。また、重慶市は、三峡地区の歴史文化と三峡工事完成以前の自然地理景観を再現することにも着手する。
 現在、北京大学、吉林大学、四川考古研究所などの大学や機関から派遣された60を超える経験豊かな考古研究チームが、三峡流域の100ヶ所にのぼる遺跡で発掘調査を行っている。これほどの数の考古学チームが同一地区に集結して調査を行うことは、中国の歴史においても空前のことであり、世界にも類を見ない。
 より速くより細心に発掘調査を完了するために、考古関係者たちは数多くの現代的な技術を採用した。例えば雲陽の故陵、別名「楚墓」を発掘する時には、CTスキャン、地下探査レーダー、高精密磁気探査機、磁場探査機など多種類のハイテク機器と最新の科学的調査方式が使用されている。

緑に覆われた白帝城。ダムの完成後は孤島になる(写真/宋林)
700年の歴史をもつ奉節県城の城門(写真/鄭雲峰)
新旧の巫山県の町。高層ビルの立ち並ぶ新しい町が、旧市街のすぐ家に築かれている。(写真/宋林)

未来への遺産 
  高い歴史的価値を持つ古代文物の発掘が進むと、今度は「如何にそれを完全な状態で保存するか」が中国だけでなく、世界が関心を寄せる問題となった。
 この問題を解決するため、中国政府は巨額の予算と膨大な人員を投入した。1992年に三峡水利プロジェクトを決定したその日から、政府は三峡地区の古代文物の発掘・保護について具体的スケジュールを組んだ。その第一期調査の経費は10億元に達している。2000年度を例にすれば、行われた調査の発掘面積は12万uに達し、経費は1億元に達する。この数字は中国政府が毎年全国重点文物の保護に投入する資金の総額に相当している。
 「世界最古の水位観測所」である白鶴梁石刻に対し、1993年から考古専門家たちはこれをどう保護するか検討を重ねてきた。様々な方法が提案され、否決されてきたが、専門家たちは最後に「無圧力ケース」の使用を採用することにした。透明な無圧力のケースで白鶴梁石を覆い、観光者には水底の通路から見学してもらうことにするのだ。こうして白鶴梁石刻の保護と公開方法の問題は解決された。
 雲陽県にある張飛廟。これは、三国時代の蜀の名将である張飛を記念するために建てられた。人間による造形美と粗野で豪放な自然美とが強烈なコントラストを織り成すこの廟は、中国古代建築物の逸品とも言えるだろう。如何にして張飛廟の古建築物とその周囲の自然景観を、その調和した状態で保存するか、これもまた、文化財保護の重点問題であった。結局、専門家たちはここの自然景観に似た場所を選んで、張飛廟古建築物の全体をそのまま移築することに決め、張飛廟の周囲の樹木にまで1本1本と番号を付けて原状のまま移植した。
 忠県石宝鎮の玉印山にある石宝寨。これは中国に現存する標高が最も高く、階数の最も多い枡形を使用した木造古代建築物である。三峡ダムの堰堤が完成すると、ダムの水は石宝寨の門にまでに水位を増すことになる。保護の規定により、石宝寨に関しては移転させるのではなく、門の前に堤防を築くという方法が採られた。この措置によって、石宝寨は満々と水を湛える長江の水面の上に浮かびあがり、これまで以上に雄大な景観を持つようになる。
三峡 消し去れない文化の蓄積
 ナイル川流域でピラミッドが築かれていた頃、チグリス、ユーフラテス川流域ではシュメール人が楔文字の文化を育んでいた。この同時期、アジアでも華夏文明も芽生え、中華文明繁栄の道のスタートを切る。今日、人類の四大文明を回顧する時、われわれは誇りをもって、華夏文明が独自で5000年の輝かしい道程を歩いてきたことを自覚する。中華民族の揺籃として、黄河は炎黄の子孫から無数の讃美を浴びている。三峡地区の考古学調査の進展にしたがって、まるで母親の胸の二つの乳房のように、長江も黄河とともに中華民族を育んだ偉大な川であることが明らかになってきた。
長江の支流・三峡は、長江文化を繋ぐ絆の一つである。彼女は聳え立つ1人の巨人のように、片手は蜀文化を育んだ西の成都平原に、片手は楚文化を育成した東の江漢平原に伸ばしている。そして、彼女の胎内でも巴文化が育ち、衝突、融合を繰り返しながら「百河川を包容する」華夏文明を形成したのである。
ルーツ
 宜昌から長江岸の古代桟道に沿って川を遡って行けば、その途中、姉帰、巴東、巫山、奉節、雲陽、忠県………などの都市が、連なった真珠のように長江の両岸に並んでいる。この地域では数千万を数える人口が長江に頼って暮らし、長江の乳を飲んで今も成長しているのである。彼らの多くは長江で漁をし、江岸の田畑を耕し、運搬船を操って暮らしている。長江は彼らの生活を豊かにしただけではなくて、水路を通じて彼らと外部の世界をつないでいる。彼らを新天地に運ぶのもこの川なのだ。
 長江はその厳しい自然環境と気候で、長江人に特有の気質を形成させた。昔から三峡流域は風が強いうえ波が高く、朝晩には川は雲霧に包まれる。そんな川を航行するときは、流れを恐れず大胆に船を操らなければければならない。もしも、難所で操作を誤れば、波に呑まれて命を落とすのだ。 
 こうした生活環境によって、三峡人は鍛え上げられ、特に並外れた勇気と知恵を持つ船乗りを尊敬するという習慣を持つようになった。彼らがこの地域で活躍した歴史人物の中で忠臣の屈原、勇将の張飛を神として崇拝していることからも、彼らの価値観、理想の人物像をうかがい知ることができる。
 三峡人は豪快である。三峡は、長江上流域の人々にとって下流に通じる門戸であり、三峡人には広い外部の世界に出て新天地を切り開く、開拓精神の旺盛な者が多い。
 また、三峡人は楽観的である。滔々と流れる母なる川――長江は、彼らに無数の災難をもたらしたが、繰り返す水害も彼らの「生きる」ことに対する強い意志を打ち破ることも、彼らの「美」に対する追求をも流し去ることはできなかった。毎回洪水の水が引くと、彼らはすぐに新しい家を建て、新しい生活を始めるのだ。
 三峡は、ここに生まれてここで暮らす人々のルーツそのものなのだ。

ミニ三峡を航行する船を曳く人夫。三峡ダムができると船の航行は便利になるが、こうした船曳き人夫の出番もなくなる。(写真/解特利)
三峡を航行する船乗りは、経験と知恵を武器に激しい波と戦わなければならない。三峡が大きな貯水池になれば、こうしたスリリングな場面も見られなくなる。  (写真/鄭雲峰)

三峡――山紫水明の川、詩の川
 中国を見ても、世界を見ても、三峡ほど代々の詩人を魅了し、詩人に讃美されてきた川はないだろう。
 中国唐代の大詩人、杜甫は三峡の奉節で数年間隠居し、詩を437篇残した。
「朝に辞す 白帝彩雲の間  千里の江陵 一日にして還る…………」 詩聖・李白の『早に白帝城を発す』詩は今でも広く詠われている。
 このほか、劉禹錫、白居易、王維、蘇軾、陸游、朱熹、欧陽修など中国文学史上の数多くの詩人、文人も、三峡を訪れて優れた詩を残した。
 こういう興味深い統計がある。中国詩歌の内、三峡を詠う詩は計算して1q平均200首にも達している。三峡は、文学によって天下に知られるようになったのである。
孤島になる白帝城
 水位の上昇は、程度の差こそあれ多くの三峡の観光名所に影響を及ぼす。屈原祠は浸水するため、別の場所に移築しなければならないが、神女峰には大した影響はない。奉節の「天坑」については却って交通の便がよくなると思われる。
白帝城も長江に浮かぶ孤島になる。山を控えて長江に面した白帝城は、衢塘峡の要所にあり、?門と対峙していて気勢は極めて雄大である。水位が175mに上がると白帝城は長江の孤島になる。昔日「白帝城高く、衢塘峡険し」と謳われた景観は、もう見納めになるのだ。現在、危惧されていることは、白帝城のある山体が冬夏の激流に耐えられるかどうかである。
 専門家たちはすでにこの点を認識していて、白帝城の景観保護に関する全体計画も整い、この計画に基づいた工事を進められている。「三峡随一のこの名所を、絶対にわれわれの世代で失うわけにはいかない」と、関係者は強い決意を表す。残念ながら失われるものもあるだろうが、ダムの完成後は、新しい観光名所も現われることになっている。
消える町
 長江三峡の両岸には大小様々な古い町が散在している。移転が決まった巫山県大昌鎮 はともかく、その他の町はこれほどの好運には恵まれなかった。
 岩塩の産地として古くから栄えてきた町――雲陽県の雲安鎮。ここで取れる岩塩は滔々と流れる長江を通じて全国の各地に運ばれているが、間もなくこの古い町も長江の水面に消えることになっている。町で一番高い「陜西箭楼」と呼ばれる鐘楼は、その他の町の古建築物とともに「古建築移築村」に移された。
 しかし、奉節県の県城は、その名残を留める文物を持たなかった。2002年11月4日に700年の歴史を持つその町は、鳴り響く爆発の音とともに水の中へと消えてしまったが、もとの所在地から西へ10km行った所に新しい町が建設されている。
最後の水上生活者
 水位が上がれば一番影響を受けるのは先祖代代長江に頼って暮らしている水上生活者である。
 長江の航行安全のために、三峡の両岸には数多くの灯台が築かれていた。三峡の堰き止めが成功すると、これらの灯台も廃止されることになる。巫山県大渓鎮の白鴿背灯台もこうした灯台の一つである。幾十年もの間、雨の日も風の日も大渓鎮白鴿背の灯台は消えることなく衢塘峡を出入りする船を導いてきた。自分たちの暮らしを守ってきた灯りが消えることは、地元の人々にとって観光名所を失うこと以上に悲しいことである。
 張一明さんの一家は、長江三峡の内のある島で先祖代々は漁をして暮らしてきた。彼自身も小さい頃から長江で両親を助けて漁をしていたと言う。張さんはすでに移民として湖北省に移住したが、そこでの仕事や生活に慣れないため、単身故郷に戻って漁を続けている。三峡のダムが完成すれば、この島も水面の下に消え、張さんも漁民の生活に別れを告げなければならない。
 張さんのだけではない。数多くの三峡の住民が、それぞれの人生を変えることを迫られているのだ。しかし、三峡で負けん気と楽観精神を鍛えられた彼らは、かならず新しい生活に慣れ、自分の力で美しい未来を切り開いていくと私は信じている。