2004-08

●歴史人物の旧宅



中国京劇の四大名旦(名女形)の旧宅


京劇の役柄の中でも旦と呼ばれる女形は、芝居に欠かせない重要な存在であっただけでなく、観客が最も注目する役柄でもあり、劇団の評判や人気を左右する花形中の花形であった。演劇専門雑誌『戯劇月刊』は1931年に女形の人気投票を行ったが、その結果、梅蘭芳、程硯秋、筍慧生、尚小雲の4人が戯曲界の「四大名旦」に選ばれた。彼らは現在も舞台史に残る四大名旦として伝説的存在になっている。
 今回はこの京劇の4名の大御所の旧宅を紹介しよう。

梅蘭芳旧居の門
梅蘭芳が使っていた書斎

梅蘭芳旧居
 梅蘭芳(1894〜1961)。原籍地、江蘇省泰州。京劇の流派「梅派」の創始者。1894年10月22日、北京市鉄拐斜街の代々続いた京劇役者の家に生まれる。10歳で初舞台を踏み、20歳前後で名を成す。1930年代、梅蘭芳は世界的にも知られる存在になり、北京を訪れる外国人は、みな梅蘭芳の舞台を観たがり、彼の自宅を訪問した。そのため、梅蘭芳は毎月自宅で茶話会を開き外国からの友人たちを持てなしていた。ゴーリキー、ウラノワ(バレリーナ)、チャップリン、バーナード・ショウ、タゴールなどの国際的な芸術家、文学者も梅蘭芳と親交を結んでいる。

梅蘭芳旧居の二の門にある木の目隠し壁と石の腰掛

 梅蘭芳は初めて京劇を国外で演じ、外国人に紹介した京劇俳優である。日本では1919年、1924年、1956年に公演を行い、彼の名前は日本中に知れ渡った。また、招かれて1929年末からアメリカで半年にわたる長期公演を行い、アメリカ国民、芸術界、学術界から大いに賞賛された。更に1935年には当時のソ連で訪問公演を行い、演劇の国際交流を促進させている。
 北京護国寺の狭い通りを入っていくと、その奥の護国寺街9号にある北京の伝統的民家である四合院が目に入る。こここそ世界的に有名な戯曲芸術の大家・梅蘭芳の旧居である。
 この典型的な四合院に梅蘭芳は1950年に移り住んだ。母屋に当たる3間の北棟は現在も当時のまま保存されており、客間であった中央の部屋には梅蘭芳が生前に愛用していた堅木の家具が置かれている。客間の東側が梅蘭芳夫妻の居間兼寝室、西側が書斎で、室内の家具、壁に掛けられた写真、書画が上品な文化的雰囲気を醸し出している。梅蘭芳の書斎に収蔵されているのは、大変に貴重な京劇の台本である。西の棟は、現在は「戯劇芸術資料室」になっており、1965年に福芝芳夫人と子供たちが国家に寄贈した3万点余りの戯曲の資料が収蔵されている。また、東の棟には梅蘭芳が成し遂げた国際文化交流の業績に関する資料が収められている。
 四合院の中庭には2本の柿の木とリンゴ、海棠の木がそれぞれ1本ずつ植えられている。これには「すべてのことが平安でありますように」という意味がある。梅蘭芳は一貫して真摯に芸術を追及した名優であったが、それは晩年も変ることなく、時間があればこの庭で京劇の動作や剣舞の稽古をし、子供や弟子たちに芝居を伝授した。
 1961年8月8日、梅蘭芳は治療の甲斐も空しく、心臓病のためにこの世を去る。  1986年10月27日、ここは「梅蘭芳記念館」として正式に一般に公開されるようになった。尚、オープンに当たっては盛大なオープニングセレモニーが挙行され、ケ小平氏が自ら扁額を揮毫している。この記念館は北京市の文物保護単位に指定されている。

共演する程硯秋、尚小雲、梅蘭芳(左より)
絶頂期の四大名旦。左から程硯秋、尚小雲、梅蘭芳、筍慧生。
筍慧生の舞台姿

程硯秋旧居
 程硯秋(1904〜1958)。北京出身、京劇の著名な舞台芸術家で、京劇の流派「程派」の創始者。

程硯秋旧居の母屋

 貧しい家庭に生まれた程硯秋は、6歳で京劇俳優の内弟子となり、最初は立ち回りを演じる武生を学び、後に女性武将を演じる女形・武旦に改める。11歳で初舞台を踏み、すぐに頭角を現す。1922年、上海で数回にわたって公演し、そのたびに人気は高まった。程硯秋の歌唱法は物悲しい響きがあり、悲劇を得意とした。程硯秋の演技は芸術性が高く、美声を聞かせる節回しは京劇のスタンダードにまでなっている。か弱い女性を演じることが多かった程硯秋だが、彼自身は長身であった。しかし、その舞台姿ははかなげで美しく、北方中国の男性特有の無骨な雰囲気は微塵もなかった。
 1958年3月9日、程硯秋は心臓病のため54歳の若さで世を去る。四大名旦の中で最年少だった彼が、最も早く没したことは実に惜しむべきことである。
 程硯秋の旧居は北京市西城区西四北三条胡同39号にある。彼はここに1937年から病没する1958年まで住み続けた。梅蘭芳同様、その家は北京の伝統的な四合院で、建物の配置が保たれおり、内部には程硯秋が生前に使った舞台衣装、台本、書籍資料、動作の練習に使った鏡、文具、絵の道具、生活用品、国内外の友人知人から贈られた記念品などが保管されている。
 彼には『硯秋文集』などの著作があり、その知識は広く、見識も深かった。彼の残した文献は京劇研究の貴重な資料である。1984年、程硯秋旧居は北京市文物保護単位に指定されている。

筍慧生の旧居

筍慧生旧居
 筍慧生(1900〜1968)。河南省洛陽出身。京劇の流派「筍派」の創始者。創造性に富んだ芸術家であった。
 筍慧生は幼いときには河北省の地方劇・河北?子を学んだが、15歳から京劇を演じ始める。筍慧生は演技に河北?子の節回しや歌唱法、演技を取り入れ、京劇の老け役である老生、老旦の技巧を融合させ、独自のスタイルを確立した。世に言う「筍派」で、天衣無縫のチャーミングな女性を得意とした。
 筍慧生の旧居は北京市宣武門外山西街甲13号にある。広い庭のある四合院で、梨、柿、ナツメ、サンザシ、リンゴ、海棠などの果樹が植えられている。庭の柿の木は秋が深まると鮮やかな色の実をつけ、まるで青空に赤いランタンを掲げたように美しい。しかし、この柿の実は熟してももいだりせず、冬の来客に供された。冬の日、訪れた大勢の来客と火鉢を囲んで談笑し、庭の柿を取って来てきれいに洗い、小皿に入れて客に勧める。ナツメも甘味が強く、筍慧生は毎年その実を梅蘭芳、田漢、老舎などの親しい友人たちに贈っていた。
 筍慧生は1968年に病没する。

尚小雲旧居は一時警察の事務所として使用されていたが、居間は取り壊され撤去されてしまった。

尚小雲旧居
 尚小雲(1900〜1976)。河北省出身、京劇の流派「尚派」の創始者で、文学的な芝居と立ち回りの多い芝居の両方に長じていた。
 貧しい家庭に生まれたため、尚小雲は幼くして京劇の劇団に入り、武生、老生、隈取をする花瞼を学び、後に女形を学んだ。師匠は自らの名前から「雲」の一文字を取り、「小雲」という芸名を彼につけた。尚小雲の歌唱法は勇ましく、女将などの女性英雄、女侠客がはまり役であった。水袖と呼ばれる衣装の袖につけられた長い白絹のさばき方、腰や足の使い方、京劇独特のしぐさが絶妙で、しぐさや歩き方で人物の感情を表現することに長けていた。尚小雲は四大名旦では最も長命で、1976年に没している。
 尚小雲の旧居は北京市宣武区椿樹下三条1号の四合院で、生前はずっとここを住まいにしていた。彼の死後は、警察の事務所として使用されていたが、北京市の再開発のために、旧居は周囲の胡同とともに撤去されてしまった。

梅蘭芳
尚小雲