2004-08

中国の障害者スポーツ事情その3

 


終わりなき挑戦

障害者世界重量挙げチャンピオンの張海東選手


文/張 文
パラリンピック重量挙げの第一人者、張海東選手。
第6回中国障害者スポーツ大会で聖火ランナーを務める張海東選手
トレーニング中の張海東選手
1969年の秋、江蘇省啓東県の山村に一人の男の子が生まれる。よちよち歩きができるようになった満1歳の時、男の子は病気に罹り、長く続いた高熱がようやく下がったとき、彼の両足はマヒして直立することができなくなっていた。小児麻痺の後遺症だった。幼くして障害者になってしまったこの子こそ、パラリンピック重量挙げのゴールド・メダリスト、張海東さんである。
 1985年、張さん一家は南京に住居を移し、その翌年に彼は民政部門の斡旋で障害者のための福祉企業に入った。彼はこの工場で倉庫の保管、裁縫、機械修理、会計など多くの職種を経験する。1987年に入り、張海東さんは子供頃からの夢を実現し、自分の能力を証明しようと、仕事の余暇を利用して南京市盲学校の体育教師・王興江先生の指導のもと、重量挙げのトレーニングを始める。
 毎日の退社後はもちろん、祝祭日も、風が吹こうと、雨が降ろうと、厳しい寒さや暑さにも負けず、張海東さんは数年を一日の如く、車椅子を2時間以上走らせて十数キロ離れた盲学校のグラウンドに向かい、トレーニングを続けた。冬の日には道が凍結し、椅子車ごと転倒することもしばしばだった。夏は夏で汗のために手が滑って、バーベルをしっかり握ることができない。しかし、こんなことは苦労のうちに入らない。張さんは一日に延べで数十トンの重量を挙げることを自らに課している。優しい彼は、両親が心配しないように、家にいるときはトレーニングのことを一切口にせず、家族がトレーニング場に来ることも許さなかった。現在も、両親は彼のトレーニング姿を見たことがない。
 自らの行動で自らの能力を証明し、世界記録を更新する。
2004年のアテネ・パラリンピックに向け、張海東選手はトレーニングを積んでいる。写真は訓練の合間にコーチと話し合う張海東選手。
張海東さんは自分の成績に満足せず、常により高い目標を目指して努力をしている。彼の実力ならば、今さら特別なトレーニングをしなくても、すぐにチャンピオンの座を奪われたり、記録を塗り替えられたりする恐れはない。実際、彼が1996年のアトランタ・パラリンピックで立てた67.5キロ級の195キロの世界記録は、その後の数年間、更新されることはなかった。少しくらい余裕を持ってもよさそうなものを、ストイックな彼は依然として厳しいトレーニングを続けている。しかも、トレーニング量はコーチの要求を更に上回っていると聞く。彼の成績はこの厳しいトレーニングによって、向上し続けた。ここ数年、国際、国内の大きな試合では、気候や食べ物の変化にもコンディションを崩すことなく、実力を発揮してきた。常に自分が保持する世界記録を更新し、2位の選手に30キロから60キロの大差をつけて優勝している。
2000年5月12日に開幕した第5回全国障害者スポーツ大会で、張海東選手とその夫人の馬敏英選手はそれぞれ素晴らしい成績を挙げた。競技場で励まし合う張海東夫妻の姿は、この大会でも大いに話題になった。写真は、男子75キロ級の世界記録を更新して優勝した張海東選手と夫人との記念写真。

1998年の第2回世界障害者重量挙げ選手権大会では220キロを挙げ、自分が保持する210sの世界記録を更新して75キロ級の世界チャンピオンに輝き、2000年の第11回パラリンピックでも、75キロ級のチャンピオンになった。このとき張海東さんは、240キロを挙げ、第7回フェスピックで自己がマークした世界記録の225キロを更新している。
 自分に厳しい張海東さんは、プライベートでもその姿勢を崩さず、心身の健康に有害でトレーニングや競技、個人の成長に悪影響を及ぼすようなものには、決して触れようとしない。トレーニング以外の殆どの時間を学習に費やし、自分の精神を向上させ、選手生活を充実させてきた。また、張海東さんはあらゆる方法を講じて国内の障害者スポーツ活動の資料を集め、分析研究し、体育協会やコーチたちとともにチームメイトの成績向上に努めている。
 十数年にわたる選手生活と、それを支える努力と修養のおかげで、張海東さんは優れた品性と素養を備えるようになった。中卒の学歴と身体の障害は、心無い人の軽視を招くが、張海東さんはその品性、素養、そして優れた成績で人々の尊敬を勝ち取り、人間の尊厳をその体で証明している。スポーツ選手として、人間として自信に満ち溢れた彼は、軽度障害者の女子大生と恋に落ち、青春を謳歌した。現在2人は結婚して共に障害者スポーツの分野で活躍している。