中国カンーの総本山・少林寺がある河南省登封市。2004年4月17日、14万人の登封市民が一人の公務員の葬儀に参列するため、自発的に家を出た。幅60mのメインストリートは、やがて悲しみに暮れる人々で埋め尽くされ、結局、数日間の弔問期間に市の人口の3分の1にあたる20万人が死者の霊前で哀悼の意を表した。
人々からこれほどまでに慕われたのは、登封市公安の元局長・任長霞さんである。
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任長霞局長の生前の写真と、彼女に贈られた「中国10人の女傑」のトロフィー
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私服姿の任長霞局長
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任長霞局長の業績を紹介する書物は中国各地で広く読まれている
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2001年4月、河南省登封市公安局長就任の辞令を受け、任長霞さんは登封市、いや、河南省で史上初の女性公安局長となった。公安局長に就任してからの3年間、任局長は「誠心誠意人民に奉仕する」をモットーに、内部から警察組織を厳しく管理し、一般市民の意見に真摯に耳を傾け、管轄地域の犯罪を厳重に取り締まった。彼女のこの努力により、登封市の治安は目に見えてよくなり、市民も安心して生活を楽しめるようになった。
登封市刑事警察大隊の?海民大隊長は、任長霞局長のことを「仕事に熟達した方だったので、手を抜こうにもそんな隙はありません。われわれは着実に任務をこなしていかなければならなかった」と、任局長の仕事振りを振り返る。任局長は刑事事件の解決に特に力を注ぎ、事件が発生すれば殆どの現場に自ら足を運んだ。2002年春のことである。ある犯罪グループを摘発するため、任長霞局長は私服の刑事警察を率いて、20日間も農村を歩き回った。土地の人々は今日になっても、農婦に変装して兎の毛皮を買いに来た彼女のことを覚えている。犯人の逮捕後、人々はようやく天秤量りの竿を担ぎ、手に大きなビニール袋を下げたあの時の「農婦」が公安局長であること知ったという。
任局長の部下である呉宏敏さんは、次のエピソードを語ってくれた。「任局長は数足の黒い靴をストックなさっておられましたが、すぐに靴店に修理に出さなければならなりませんでした。専用車があるのに、聞き込みで歩くことが多く、1ヵ月も持たないのです。お気に入りだった靴はヒールの減りも早く、ヒールを何度も取り替えて履いておられましたね」聞き込みから戻った任局長を出迎えると、その靴にも、ズボンの裾にも泥がこびりついている。時には草の棘がびっしりとつていることもあった。「また農村に行かれたのだな」と、呉さんは感心したという。
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多忙で、傍にいてあげられなかった実子の剛さんとの思い出の写真
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犯罪の取締りは勿論だが、任長霞さんは市民との交流も公安局長の任務と考えていた。着任後、任局長は登封市民の声を聞くため、1日を割いて市民相談の日とした。市民相談を名目上の義務と考える一般の公務員と異なり、任局長その日の土曜日になると早めに出勤して、苦情を訴えに来る市民のためにお茶を用意した。時には、朝8時から夜の11時半まで、市民の陳情に耳を傾け、来訪者の訴えに涙を流し、慰めるためにお茶を勧めて、昼食でさえ同僚からもらった中国式の焼きパンだけで済ませた。その日、任局長は計124名の来訪者を受け入れ、その訴えを熱心に聞いた。
登封市民はみな、任長霞局長に「3人の子供」がいることを知っている。実子は息子さんが1人だが、彼女を母と呼ぶ子供が他に2人いるのだ。1人は、父親の事故死で孤児となった今年14歳の劉春玉さんである。任長霞局長は彼女を養女として引き取った。今年20歳の景文輝さんも任局長の「息子」である。1998年、景文輝さんは傷害事件に巻き込まれ、片目が見えなくなってしまった。目が不自由になったため暮らしも困難になったが、それにもかかわらず発奮して勉学に励む彼を見て、任局長は目の治療のために彼を都会の病院に行かせるなど、経済的な援助をした。任長霞局長の葬儀では、劉春玉さんも景文輝さんも中国の風俗に従い、子供として彼女の通夜で弔問客を迎えている。
任長霞局長は2004年4月14日に交通事故で亡くなったが、今も多くの人々の心に生きている。彼女は一人の公務員としての職務を遂行しただけでなく、自らの行動で公務員に模範を示した。葬儀に参列した10万人以上の人々を目にして、息子の剛さんは涙をこぼしながら「僕の面倒を見る暇さえない忙しい母を理解できず、ジェネレーションギャップを感じていました。でも。こんなにも多くの人々が母の葬儀でその死を悼んでくれているのを見て、母の心を理解することができました」と、語っている