2001-08

チベット特集


チベットの50年


1954年9月21日、中国第1期全国人民代表大会第1次会議に出席するチベットのダライ・タンゾウカツォー代表とパンチャンエルドニ・チェジケンツァム代表を中南海の勤政殿で接見する毛沢東氏(真ん中)。
編集者の言葉
 中国は多民族統一国家である。長い歴史の中で、56の民族は祖国を開拓し、苦楽を共にする相睦まじい多民族大家族をつくりあげた。正に祖国の各民族人民との密接な社会的、文化的交流の中、チベットは13世紀に地方割拠を終え、正式に中国の版図に組み入れられ、中国領土の不可分の重要な構成部分となった。 1951年、チベットは平和裏に解放された。これはチベット社会発展の偉大な転換点であり、中華民族が100年にわたる近代貧弱史を終わらせて新しい偉大な振興に向って進んだ必然の結果であり、チベット社会発展の客観的な要求である。 50年が過ぎ去って、チベット社会に起こった歴史的変化とチベットの発展が収めた輝かしい成果は、これまでのいかなる時代の比ではない。チベットの50年が展開して見せてくれたのは歴史の進歩の壮大な絵巻物と言ってよい。
   


1951年5月23日、『チベットを平和的に解放する方法に関する取り決め』の調印式における中華人民共和国中央人民政府の全権代表(上図)とチベット地方政府の全権代表(下図)。


チベットが平和的に解放された初期のポタラ宮前。風に乗って翻る五星紅旗と喜ぶ人々。


民主改革前のラサ市街


農奴主の支配下では、農奴と奴隷は飢えと重労働以外には、ただ体を傷つける拷問道具が待っているだけであった。


農奴制のもと、農奴主は奴隷に「人を背負う」労役をさせ、出かける時に貧しい奴隷に自分を背負わせた。


1951年、中国人民解放軍がチベットを平和的に解放したニュースを聞くと、チベット人民は様々なプレゼントを用意して歓迎(上)、各地の族長(地方首長)、生き仏、ラマ僧と大商人もハダを持って道端に出て歓迎(下)

 中国の西南国境地帯に位置するチベット自治区は、面積120ku余り、平均海抜4000m以上に達する青海・チベット高原の主体であり、かねてから「世界の屋根」と称されてきた。ここは中国でもチベット族が多く集って住んでいる地域の1つで、全自治区人口244万人のうち、チベット族はその95%以上を占めている。
  7世紀前後、チベットには早くも固有の文字があった。その伝統文化はトバン王朝による統一を始まりとした。9〜14世紀頃、仏教の発展により、チベット仏教を主導地位とする、豊富な内容と整ったシステムを持つ民族文化が形成された。15世紀頃、チベットの伝統文化は最盛期を迎えた。文学、詩歌は雅やかで、建築と彫刻には特色があり、演劇と歌舞はバラエティーに富んで広く民間で流行し、チベット医学、天文・暦法・算術なども理論体系が整えられて豊富な経験を積んだ。
 7世紀、古代チベットの傑出した政治家・ソンツァンガンポがトバン王朝を打ち建て、唐王朝の文成姫を后として迎えて中原の漢民族と密着な政治、経済、文化の連係を保ち、「社稷を相談すること一の如き」、「和して一家と同じくす」といった政治連盟を形成し、後の統一国家の一部になるための基礎を築いた。13世紀中葉の元代、チベットは正式に中国の版図に組み入れられ、中央政府の管轄下で中国領土の不可分の一部となった。1372年、明の太祖はカッキョ派2代目の領袖・甲央(ジャヤム)をチベットの法王として封じて、チベットを統帥し管理させた。その後の歴代法王の王位継承は中央政府が封じることになっている。
 新中国成立後、チベット人民を含む全国各民族人民の共通の願いである祖国の大陸の統一実現のため、中央人民政府は1951年5月23日にチベット地方と『平和的にチベットを解放することに関する取り決め17条』を締結して、チベットの平和的な解放を実現させた。1965年9月1日、正式にチベット自治区となった。
 封建農奴社会に入った13世紀頃から平和的に解放される前のチベットは長期にわたって政教一致、僧侶貴族専制の封建農奴社会に留まり、しかも歴史発展の中で日に日に立ち後れて腐朽し、社会矛盾も日に日に深刻化して、社会の進歩をひどく妨げていた。チベット総人口95%以上を占めた農奴と奴隷は身の自由がなく、人としての基本的な権利が剥奪されていた。領主は農奴と奴隷を思うがまま殴ったり罵ったり、処罰、売買、贈与さらには監禁、死刑にしたりすることができた。チベットの地方法典によれば、社会は3等9級に分かれ、「人には上、中、下の3等があり、等ごとにはまた上、中、下の3級に分かれる」。上等上級の人の命の貴さは黄金に等しく、下等下級の人の命は1本の縄にしか値しない。チベットの裁判所と監獄は刑法を犯した者に対して、目玉をくり抜く、鼻を切り落とす、四肢を切り去る、筋を抜き出すなど数十の残酷な刑罰を制定した。チベット自治区の現任主席、列確(リイエチョ、チベット族)氏はこう述べている。「チベットの封建農奴制度の政治的暗黒さと残酷さは、人類の近代史と現代史においては希に見るものである」
 総人口5%に満たない三大領主(官吏、貴族、寺廟の上層僧侶)はチベットのほとんど全ての土地、草地、山林、家畜を占有し、農奴と奴隷は重い地租、100を数える種類の税金と無償の労役を負担するだけでなく、生まれてから死ぬまで領主の所有に帰し、人頭税はこういう人身所属関係の象徴であった。更には農奴は結婚したい時も領主の同意を得なければならず、農奴が死亡した時も領主のところに行って名前を消さなければならない。

 奴隷社会のチベットは、生産が日増しに萎縮し、人口は急激に下降、疫病が流行し、経済と文化の発展が長期にわたって停滞の状態に留まっていた。チベット地方政府の統計によれば、1950年のチベットの人口は約100万人で、平均寿命は35.5歳しかなく、かつて燦然たる古代文化を創り出したチベット民族だが、文盲率はなんと90%以上に達した。50年前のラサは人口が3.7万人しかなかったが、乞食はなんと4000〜5000人に上り、ほとんどの人々は極端な貧困生活を送っていた。
 チベット人民に対して言えば、民主改革を実行し、封建農奴制度を廃止することは、彼らの歴史的な選択である。チベットが平和的に解放されてから、チベット人民は全中国人民と同じように国家と社会の主人公となった。1959年にチベットの上層反動集団が引き起こした武装反乱を平定して民主改革を実行したことは、代々一切の権利を剥奪された百万の農奴と奴隷が、政治、経済、文化など各方面にわたって主人公としての権利を初めて行使し、憲法と法律が定める全ての公民としての政治権利を獲得したことを示している。チベットの生産資料の所有権は抜本的に改められ、百万の農奴は自分の土地、家畜を持つようになって生産意欲を大きく高め、穀物だけでその年の3.6万tから1965年には16万tに増加した。
 チベットの経済建設を速め、人民大衆の生活水準を絶えず引き上げ、チベットの広範な大衆に十分な生存権と発展の権利を持たせることは、チベット活動に関する中央政府の第一に重要な目標である。

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蜜芬驚