|

1951年5月23日、『チベットを平和的に解放する方法に関する取り決め』の調印式における中華人民共和国中央人民政府の全権代表(上図)とチベット地方政府の全権代表(下図)。

チベットが平和的に解放された初期のポタラ宮前。風に乗って翻る五星紅旗と喜ぶ人々。

民主改革前のラサ市街

農奴主の支配下では、農奴と奴隷は飢えと重労働以外には、ただ体を傷つける拷問道具が待っているだけであった。

農奴制のもと、農奴主は奴隷に「人を背負う」労役をさせ、出かける時に貧しい奴隷に自分を背負わせた。

1951年、中国人民解放軍がチベットを平和的に解放したニュースを聞くと、チベット人民は様々なプレゼントを用意して歓迎(上)、各地の族長(地方首長)、生き仏、ラマ僧と大商人もハダを持って道端に出て歓迎(下)

|
中国の西南国境地帯に位置するチベット自治区は、面積120ku余り、平均海抜4000m以上に達する青海・チベット高原の主体であり、かねてから「世界の屋根」と称されてきた。ここは中国でもチベット族が多く集って住んでいる地域の1つで、全自治区人口244万人のうち、チベット族はその95%以上を占めている。
7世紀前後、チベットには早くも固有の文字があった。その伝統文化はトバン王朝による統一を始まりとした。9〜14世紀頃、仏教の発展により、チベット仏教を主導地位とする、豊富な内容と整ったシステムを持つ民族文化が形成された。15世紀頃、チベットの伝統文化は最盛期を迎えた。文学、詩歌は雅やかで、建築と彫刻には特色があり、演劇と歌舞はバラエティーに富んで広く民間で流行し、チベット医学、天文・暦法・算術なども理論体系が整えられて豊富な経験を積んだ。
7世紀、古代チベットの傑出した政治家・ソンツァンガンポがトバン王朝を打ち建て、唐王朝の文成姫を后として迎えて中原の漢民族と密着な政治、経済、文化の連係を保ち、「社稷を相談すること一の如き」、「和して一家と同じくす」といった政治連盟を形成し、後の統一国家の一部になるための基礎を築いた。13世紀中葉の元代、チベットは正式に中国の版図に組み入れられ、中央政府の管轄下で中国領土の不可分の一部となった。1372年、明の太祖はカッキョ派2代目の領袖・甲央(ジャヤム)をチベットの法王として封じて、チベットを統帥し管理させた。その後の歴代法王の王位継承は中央政府が封じることになっている。
新中国成立後、チベット人民を含む全国各民族人民の共通の願いである祖国の大陸の統一実現のため、中央人民政府は1951年5月23日にチベット地方と『平和的にチベットを解放することに関する取り決め17条』を締結して、チベットの平和的な解放を実現させた。1965年9月1日、正式にチベット自治区となった。
封建農奴社会に入った13世紀頃から平和的に解放される前のチベットは長期にわたって政教一致、僧侶貴族専制の封建農奴社会に留まり、しかも歴史発展の中で日に日に立ち後れて腐朽し、社会矛盾も日に日に深刻化して、社会の進歩をひどく妨げていた。チベット総人口95%以上を占めた農奴と奴隷は身の自由がなく、人としての基本的な権利が剥奪されていた。領主は農奴と奴隷を思うがまま殴ったり罵ったり、処罰、売買、贈与さらには監禁、死刑にしたりすることができた。チベットの地方法典によれば、社会は3等9級に分かれ、「人には上、中、下の3等があり、等ごとにはまた上、中、下の3級に分かれる」。上等上級の人の命の貴さは黄金に等しく、下等下級の人の命は1本の縄にしか値しない。チベットの裁判所と監獄は刑法を犯した者に対して、目玉をくり抜く、鼻を切り落とす、四肢を切り去る、筋を抜き出すなど数十の残酷な刑罰を制定した。チベット自治区の現任主席、列確(リイエチョ、チベット族)氏はこう述べている。「チベットの封建農奴制度の政治的暗黒さと残酷さは、人類の近代史と現代史においては希に見るものである」
総人口5%に満たない三大領主(官吏、貴族、寺廟の上層僧侶)はチベットのほとんど全ての土地、草地、山林、家畜を占有し、農奴と奴隷は重い地租、100を数える種類の税金と無償の労役を負担するだけでなく、生まれてから死ぬまで領主の所有に帰し、人頭税はこういう人身所属関係の象徴であった。更には農奴は結婚したい時も領主の同意を得なければならず、農奴が死亡した時も領主のところに行って名前を消さなければならない。
|